東京電力女性社員殺人事件控訴審判決
第一 新たな証拠
控訴審では、本件手帳及び押収された手帳の記載の正確性を検討するために、5人のなじみ客を証人尋問した。その結果は、次の通りである。
一 それぞれが、最初の買春の状況及びその後の買春の状況についてかなり詳しい証言をしており、買春の年月日はもとより、被害者との連絡の仕方、売春代金及びその支払方法に至るまで、客側の証言内容が、手帳の記載と非常によく合致している。
二 上記客のうち4名について、同人らが被害者との買春状況を自分の手帳やメモに記載していたところ、これらの手帳やメモが証拠として提出された。
そのうち客1は、自分の手帳に記載された8回分について、被害者の手帳の記載と完全に一致した。
客2については、自分の手帳に記載された48回分について、被害者の手帳の記載と完全に一致した。
客3については、33回分について完全に一致した。
客4については、提出されたメモと被害者の手帳の記載が一致した。
第二 控訴審における高裁判決の判断
一 被害者の手帳の記載内容の正確性について
被害者の手帳の記載内容の正確性を検討すると、売春相手となった客側の供述、証言、手帳、メモ等と合致しているのであり、書き誤りがないばかりでなく、書き漏らしも見いだしがたい点において、非常に確度が高いと認められる。これは、控訴審で新たに証人尋問したなじみ客の証言や手帳との照合結果からも、さらに明確になった。
第1審は、その正確性についてこれを担保する裏付けがないとして懐疑的であるが、その評価は正鵠を射たものとは言い難い。
二 手帳の記載との関係からする最後の買春の日時に関する被告人の弁解の検討
そこで、手帳の記載内容を見ながら、その記載の趣旨について検討する。
まず、「?外国人0.2万」の記載の趣旨が問題となる。
「?」の符丁の記載の仕方に関し、被害者は、初めての客相手に売春する場合、相手の名前を聞き出すなどして、今後とも引きつづき客になりそうだと判断した場合には、初回でも「?」をつけないが、相手方が名を明かさず、連絡のヒントさえ与えてくれなかったり、相手方の応対態度から今後は客にはできそうではない判断した場合は、「?」の符丁をつけておき、次に売春をする機会がまたあって、名前や連絡方法などがわかり、今後も客にできそうな場合は、「?」の符丁を外すという傾向があったことが窺われる。
そうすると、12月12日欄の「?外人(401)1・1万円」の記載は、被告人の供述する初回の買春に照応することは疑いないのであるが、被害者が「?」の符丁をつけたのは男3名と401号室で売春を行ったものの、3名が同室の居住者かどうか判然とせず、身元の確認ができなかったからであると推認できる。そして、その4日後の16日の欄「外人(401)0・3万円」とあるのは、その客が3人の中の1人であり、401号室の居住者であることがわかったので、「?」の符丁をはずしたと説明できる。
以上を前提に、2月28日欄の「?外人0・2万円」の記載について検討すると、被害者は被告人と面識があったはずであり、被告人を401号室で売春した外人と容易に認識できたはずであるから、「?外人」と記載するとは考えがたい。1月23日の「ネパール0・2万」の記載は、被告人が供述する2回目の買春とは代金の額が違いすぎて照応するとは言い難いが、仮にそうだとすると、なおさら、2月28日欄の「?外人」の記載は、被告人ではなく、別人であるというべきである。
次に、「0・2万円」の記載につき検討する。
被告人は、当初、最後の買春の際支払った金額は、4,500円くらいだったと供述した。この供述は、定期券の購入代金及びハッシムからの借金の額の記憶と結びつけてなされ、明確であったが、その後は、「最大で4,500円というのは確かだと思うが、それより少ない可能性はいくらでもある。」と供述を変え、「多ければ4,500円、3,500円かもしれないし、2,500円かもしれない。」と修正するなどして、不自然である。 しかも、その供述する額は、「0・2万円」とは異なっており、仮に被害者が2,500円を受け取ったなら「0・25万円」と記載するはずである。
以上からすれば、2月25日から3月2日ころまでの間に、101号室で被害者と性交し、その際に使用したコンドームを便器に自分が投棄したという被告人の供述は信用できない。
二 本件鍵の保管状況
1 本件鍵の返還時期に関する店長Aの供述ないし証言の検討
店長Aが本件鍵と家賃を受け取った時期について、「督促の留守電を入れた3月1日の2,3日後に、被告人から電話があり、3月5日の水曜日に本件鍵と家賃を持ってくると返答があった。ところが、3月5日には持って来ず、その4,5日後に持ってきた。受け取った家賃10万円は、大家の会計担当者Dにすぐ届けた。警察の調べで、届けた家賃を会計担当者Dが入金したのが3月11日で、被告人の休日が10日だったと聞き、10日に持ってきたと思った。」と供述する。
この供述は、被告人に本件鍵と滞納家賃の督促をしたいきさつから始まる事態の推移を自然かつ具体的に述べるものであり、信用性が高い。
第1審判決は、受取日を3月10日と証言したことにつき、取調官の誘導に乗った面があることを否定していないとして、10日を受取日とする証言の信用性には疑問があると説示するが、この証言の内容は、もともと「(返還約束の日である)3月5日から4,5日経った日」という自分の記憶があるところ、被告人の休日と銀行入金日を取調官に教えられて、受け取った日が10日であると合点したというのであるから、誘導と目すべきものではなく、原判決は当を得ない。
もっとも、店長Aは、本件鍵を受け取った具体的状況については、「全く覚えていない。」と証言し、「届けた人物についても記憶にない」と証言するに至っているが、本件鍵の受取の具体的場面の記憶がはっきりしないからといって、それが直ちに受取時期に関する供述の信用性を損なうと見るべきではない。
2 本件鍵の返還時期に関する会計担当者Dの供述ないし証言の検討
会計担当者Dは、「自分は、同じ大家が経営するカプセルホテルの経理事務も担当しており、家賃を受け取ると、カプセルホテルの売上金を入金するときに一緒に持っていって入金していた。売上金との混同を避けるために、家賃は受け取ったらなるべく早く入金するようにしていた。銀行の通帳を見ると、家賃10万円は3月11日に入金になっている。10日に6日から9日までの4日分の売上金が入金になり、11日に10日の売上金が入金になっているので、家賃は、10日の夕方から翌日入金するまでに、店長Aが持ってきたものと思う。」と供述する。
この供述は、銀行の資料に基づく明確で具体的なものであり、これによれば、3月10日ないし翌11日に店長Aが会計担当者Dに家賃10万円を届けたことは間違いないものと認められる。
この点につき、第1審判決は、3月6日に家賃を受け取りながら、10日まで入金するのを失念した可能性を否定できないというが、会計担当者Dは、売上金と家賃の銀行入金を日常の業務として行っている者なのであって、そのような見方は失当である。
3 本件鍵の返還時期に関する同居人2の証言の検討
同居人2は、「3月5日夜12時前、被告人が帰って来た。部屋には、モハン・カドカとマダンと私がいた。私は、被告人に請求されて1万円を渡したところ、これに9万円を足した10万円と本件鍵を被告人がくれて、『自分が仕事に行く前には間に合わないし、帰ってきても夜になるので、翌日昼間の時間に店長Aに持っていって下さい。』と頼まれた。翌6日午後12時30分頃家を出て、店長Aの勤務するレストランNで、当時このレストランに勤務していたマラヤン・マッラに会い、店長Aを外に呼んでもらって、10万円と本件鍵を渡した。」と証言する。
しかしながら、この証言は、次の事情に照らすと、信用できない。
第1に、同人の証言は、「3月6日に自分が店長Aに鍵を返した。」という供述ないし証言と「自分は返したことはない。」、「口裏合わせである。」という否定供述の間で何度も変転し、周囲の働きかけに影響されて安易に供述ないし証言を変える傾向が見られ、どちらが正しいのかにわかに決しがたい。
第2に、「3月6日に返した。」という同人の供述ないし証言は、店長Aの供述と相反している。また、店長Aは、「被告人以外のものから鍵の返還を受けた記憶もない。」と証言している。また、当時、従業員であったマッラは、「同居人2はよく知っているが、昼の時間帯に来て、店長Aを呼んでくれと言われた記憶はない。」という。なお、マッラは、「当時店が忙しかったので、同居人2が来たとしても覚えていない可能性もある。」とも言うが、いずれにしても同居人2の来訪の記憶がないことに変わりはない。さらに、同居人であるマダンは、「3月5日の夜、被告人が帰宅した時、被告人に起こされて家賃と電話代の請求をされた。被告人と同居人2との間に現金のやりとりはなかった。」というのであるから、六畳一間の狭隘な401号室で、他の者に気づかれずに現金と鍵のやりとりが行われたというのも不自然である。
以上から、同居人2の供述は、信用できない。
4 被告人の収支状況
被告人の収支が、3月冒頭の時点で相当逼迫していたことに争いはない。そこで、被告人が給料を受け取った直後の6日の時点で、家賃10万円を支払うことができたかを検討する。
まず、ナレンドラは、「2月6日から8日頃までの間、被告人から、本国に30万円送金したいので10万円借金したいと申し込まれ、倍の20万円にして返してくれるかと半ば冗談で言うと、被告人は次の給料日に返すというので、手持ちの10万円を貸した。すると、被告人は、3月6日、20万円全額ではないが、15万円を返し、その後13日か14日に5万円をよこした。」と供述する。被告人も、20万円を支払うという約束をしたことは自認するが、その履行として、「3月5日から7日の間にマダンから、10日にラメシュから、それぞれ家賃3万円を受け取り、自分の給料の残り9万円にこの6万円を足して15万円を支払った。1回で支払ったか、10日前に先に12万円を支払い、ラメシュから借りた3万円を別に払ったかは、はっきりしない。その後、別の知人から5万円を借り、そのうち4万円を支払った。1万円の不足は特に問題にされなかった。」と、ナレンドラとは異なる供述をしている。さらに、ラメシュは、「3月5日から7日の間、被告人の給料日が5日なので、その翌日の6日だと思うが、午前10時頃、被告人がナレンドラに、借りた金を返すよと言って、かなり多くの1万円札を財布から取り出し、手渡すのを見た。10万円以上はあったと感じた。」という。
以上を前提に、第1審判決は、被告人やナレンドラの間には、1万円、2万円の額の貸借は頻繁にあったというのであるから、ナレンドラの供述は、適確な裏付けがなければ、具体性に欠けると言わざるをえないのであり、返済金額については、「10万円以上はあったと思う。」というラメシュの供述の限度でしか適確な裏付けを欠く、という。また、ナレンドラは、返済日を3月6日と供述するが、その日であるという具体的根拠は何ら明らかにされているとはいえず、ラメシュの供述も同様の指摘ができる。そうすると、ナレンドラへの返済額は、被告人も否定していない額である12万円であった可能性も否定できないし、返済日についても、せいぜい犯行日の3月8日以前とまでしか認定できない、と説示する。
しかしながら、まず、ナレンドラへの返済日に関する供述については、被告人の給料日の翌日の6日に、同人が帰宅すると、給料日に返す約束をした金員の返済を被告人から受けたというのであるから、極めて自然な供述であり、借金の返済日が6日であったのは疑いない。次に、返済額については、「被告人は、3月6日、20万円全額ではないが、15万円を返し、その後13日か14日に5万円をよこしたので約束を守ったことになった。」という供述も、簡潔ではあるが、これ以上に話に具体性がなければ信用できないという第1審判決の言い分は解せない。15万円の支払が2回に分けて行われたという事情は、全く窺われない。ラメシュの証言もあわせてみると、返済額が15万円であったことは間違いないものと認められる。
そこで、3月5日から翌6日にかけての被告人の収支状況を確認する。
3月4日の段階の所持金の額は、せいぜい1万円程度であったにとどまると認められる。そして、5日に、給与216,925円が入金になると、その日に、21万円を、翌6日に、6千円を引き出している。また、5日夜に、同居人2から家賃1万円、マダンから電話代3千円を受け取った可能性があるが、翌7日夜に、マダンから家賃3万円を受け取るまで、その余の収入があった形跡はなく、そうすると、3月6日に被告人が所持していた現金の総額は、24万円弱程度であったことになる。
他方、支出は、6日に、ハッシムとグルンにそれぞれ1万円を返済し、さらにナレンドラに15万円を支払うと、支出合計は17万円になり、そうすると、被告人の手元には、7万円弱が残るにすぎないことになり、10万円の家賃を支払うには3万円余の不足が生じる。仮に、ナレンドラに返済した額が12万円であったとしても、支払後は手元に全く残らないことになり、事実上無理であったといわなければならない。
そうすると、6日に、同居人2に家賃10万円を託して店長Aに届けたという被告人の言い分は、信用できない。
5 まとめ
以上から、被告人が本件鍵を家賃とともに返還したのは、6日ではなく、10日ないし11日であり、本件犯行日である8日には、本件鍵は、被告人が所持していたものである。
五 被害者が第三者と101号室に入り込んだ可能性
被告人の「本件鍵を預かっていた2月25日から3月2日頃までの間に、買春のため101号室に入り、被害者と性交した後、また利用するためドアを施錠しないで同室を立ち去り、6日に鍵を返還した。」という弁明のうち、「その頃、被害者と性交した。」という言い分と「鍵を6日に返した。」という言い分は信用できないことはすべに述べた。それとは別に、被告人からすると、買春のためにホテルに行けば金がかかるし、401号室では同僚の帰りが気になるのは道理であり、この言い分は弁解のための弁解とはいいきれない。また101号室の管理状態は相当杜撰で、店長A自身、3月18日には、勝手に入り込んだ女性を目撃しながら、咎めもせずに施錠だけして引き返していることからしても管理のずさんさが明らかである。 そこで、被害者が売春のための遊客を伴って入り込んで、本件被害に遭った可能性を検討する。
第1審判決は、被害者が、本件以前に、被告人を相手に101号室で売春をした際、被告人が同室の鍵をかけなかったことを知っていたため、本件当夜、他の遊客を連れ込んで被害に遭った可能性を示唆するが、被害者の手帳の記載を調べても、被害者が101号室で被告人相手に売春をしたことは認めがたいことは、すでに検討した通りである。そうだとすると、同室が空室であって、施錠されていないことを被害者が知るきっかけがあったとは考えられない。他方、101号室の管理が余り良くなかったとはいえ、通常のアパートであり、隣の102号室には居住者がいたのであるから、K荘に全く関係ない被害者が、遊客を連れて勝手に入り込む事態が、現実に起こるとは想定できない。
ただ、被告人のネパール人仲間が、101号室が空室であって、しかも施錠されていないことを聞知して、同室に連れ込んだ可能性も全く想定できないわけではないので、同居人についての当時の行動を見ると、いずれの者も、本件時間帯に被害者とK荘付近にいた形跡は認められない。
第三 原判決が指摘する「解明できない疑問点」について
一 本件コンドームの遺留状況
第1審判決は、本件コンドームが犯行当夜使用されたものであるならば、犯人がそれを現場に遺留したのは不可解であるという。
しかしながら、犯人において、本件コンドーム及びその中の精液が後日重要な証拠となることには思い及ばなかったとしても、これが特に不自然、不可解な事態といえない。
さらに、第1審判決は、本件コンドームの包装パッケージが発見されていないことを指摘し、犯人が、包装パッケージを持ち出しながら本件コンドームを放置したのは不自然であり、犯人は本件コンドームを使用していないのではないかという疑問が生じるという。しかし、包装パッケージは小さなもので、犯人がポケットなどに入れて持ち出した可能性も考えられ、これが現場で発見されていないからといって、直ちに疑問が生じるということにはならない。原判決の指摘は、相当であるとはいえない。
二 第三者の陰毛の存在
第1審判決は、被告人と被害者以外の者の陰毛が二本落ちていたことからして、第三者が101号室に入って被害者と性交し、本件犯行に及んだ疑いが払拭しきれないという。
しかしながら、101号室には、平成8年10月頃まで、別なネパール人が居住していたのであるから、退去時の清掃が不十分で、その後も掃除がなされなかったことが窺えるから、第1審判決指摘の陰毛の存在も、必ずしも、第三者が101号室に入り込んで本件犯行に及んだ可能性があることにはならないというべきである。
三 被害者の定期券入れの発見
定期券入れがどうして巣鴨の民家で発見されたかについては判然とせず、未解明のままであるが、これが未解明であるからといって、それだから被告人と本件犯行の結びつきが疑わしいことにならないことは、本件証拠に照らして見やすい道理である。第1審判決は、定期券入れが発見された場所が被告人が土地勘を持たない場所であることを被告人に有利な事情として指摘するが、そのような見方は相当とはいえない。
第四 総括と結論
一 以上の検討から、次のようなことが認められる。
1 現場で発見された陰毛について、DNA型鑑定を実施したところ、B型2本の内の1本が被告人のそれと一致し、O型2本の内の1本が被害者のそれと一致するとそれぞれ判定された。
2 現場の便器から発見されたコンドーム内の精液と被告人の血液につき、警視庁科学捜査研究所において、DNA型と血液型のそれぞれにつき型鑑定を行ったところ、両者はすべて一致した。
3 そして、これらのDNA型鑑定及びABO式血液型検査は、いずれも専門的な知識、技術を習得した経験者により、科学的に信頼される方法で行われたと認められる。また、本件精液の発見採取時までの経過時間については、約10日経過したものとしても、鑑定人の実験結果と矛盾はなく、不自然ではない。
4 「2月25日から3月2日ころまでの間に、101号室で被害者を相手に買春し、性交後に自分が同室の便所の便器にコンドームを投棄した」旨の被告人の供述は、買春代金の支払額について不自然な変遷があるなど、その供述自体疑わしいばかりでなく、被害者の本件手帳の売春結果欄の克明で確度の高い記載内容とも照応しないから、信用しかねる。
5 アベック目撃の供述から、同人の見たアベックの女性は被害者であると認められ、その相手の男性の特徴は、それが被告人であっても不審はない。
6 被告人は、前年12月12日の夜、勤務の帰途、円山町付近の路上で被害者と行きあい、自分が借りているYビル401号室に連れ込んで、被害者と合意の上で、当時同居していた同居人1、同居人2と3人で、買春を行ったことがあり、101号室の本件鍵を持っていて、同室が空室であることを知っている被告人が、3月8日午後11時30分ころに、被害者と連れだって101号室に入ることは、時間的、場所的に十分可能であり、不審はない。
7 他方、被告人の言うとおりに、本件犯行が行われる以前から、101号室の出入口の施錠がされないままになっていたとしても、右アパートに係わりのない被害者が、同室が空室であり、しかも施錠されていないと知って、売春客を連れ込み、あるいは、被告人以外の男性が被害者を右の部屋に連れ込むことは、およそ考え難い事態である。
二 以上の事情を総合すると、被告人は、3月8日、勤務先からの帰途、Yビルに至る路上で被害者と遭い、午後11時30分ころ、買春目的で被害者を伴ってK荘101号室へ入り、同室において、被害者相手にコンドームを用いて性交して射精した後、身づくろいを終えた被害者の本件ショルダーバッグの取っ手を握って奪おうとして抵抗にあっために、被害者の顔面等を殴打し、頚部を扼して殺害し、右ショルダーバッグの中の財布から少なくとも4万円を奪ったものであり、同室便所の便器の溜まり水の中にあった本件コンドームは、右性交時に使用したコンドームで、殺害の前に被告人もしくは被害者が、あるいは殺害後に被告人が、そこへ投棄したものと認めて誤りない。そして、関係証拠を検討しても、被告人の頑なな否認にもかかわらず、右認定に合理的な疑いを容れる余地はない。
三 第1審判決が被告人を無罪としたのは、証拠の評価を誤り、事実を誤認したものといわなければならない。
第五 量刑の理由
本件は、被告人が、買春の相手となった女性を殺害してその所持金を奪取した強盗殺人の事案である。強盗目的による凶行であって、実際にも被害者が所持していた現金約4万円を奪取していることを併せると、犯情は非常に悪質である。被害者は、日頃売春を繰り返していたとはいえ、相当な経歴のある会社員であったところ、突如売春の客に襲われ、39歳で短い一生を終えるに至ったもので、その肉体的苦痛が多大であったことはもとより、無念さのほども察するに余りある。遺族の心痛の深さも併せ考えると、犯行の結果は重大である。一方、被告人は、本件を頑なに否認し、第1審及び控訴審を通じ不合理、不自然な弁解を続けている。以上を総合すれば、被告人の刑責は相当に重いといわなければならない。 そうすると、被告人には、本邦における前科はないこと、入国後飲食店従業員として真面目に稼働していたこと、本国に妻子がいることなどの被告人のために斟酌すべき情状を考慮しても、被告人に対しては無期懲役刑を科するのが相当である。
第六 判決
被告人を無期懲役に処する。
第七 高裁審判決の問題点(筆者の意見)
この高裁判決を読んで、皆様は、どのような印象を持たれましたでしょうか。
さすがに控訴審の裁判官の事実認定は鋭いな、全てをお見通しだなと思われましたでしょうか。
それとも、断定的にものを言うだけで説得力がない、単に我田引水なだけではないか、こんな証拠で有罪にしてよいのかと思われましたでしょうか。
私は、当時、この判決を読んで、ものすごく違和感を感じ、高裁裁判官の傲慢さのようなものを感じました。ただ、後述するように、最高裁も高裁判決の判断を是認しておりますの、職業裁判官だけでなく、弁護士や行政官、学者などで構成される最高裁判事の方々もこれを是としたわけです。 何が変なのか、以下に指摘しましょう。
1 本件手帳の記載内容の正確性について
高裁判決の判断が最も大きな拠り所としたのは、本件手帳の記載内容の正確性です。
これが正確であるが故に、2月28日から3月2日ころの間に被害者と性交したという被告人の弁明は嘘であるというのが、まさに高裁判決の判断の柱であり、他の争点については、それにあわせる形で、有罪認定の方向へ各事実を認定しているのが見て取れます。
確かに、本件手帳の記載内容はそれなりに正確なものと思われます。高裁裁判官は、その正確性をさらに確かめたいと思ったのでしょうが、控訴審で、5名のなじみ客を証人尋問し、その証言するところと本件手帳の記載内容を照応し、さらには、これらなじみ客が保管していた手帳やメモ等とも照らし合わせ、その正確性を確信します。
皆様は、このような照応の結果から、本件手帳の記載内容が正確であると確信できますか。控訴審で証人尋問した証人は、皆被害者のなじみ客です。しかも、彼らの手帳やメモに被害者と売春行為を行ったことがわかるような記載があるというのですから、突然街頭で声をかけられた客ではなく、懇意にしている客が予約などして買春しているということでしょう。そのようななじみ客に関する売春記録が正確だからといって、円山町界隈を徘徊しながら声をかけて売春した客に対する売春記録まで正確であるなどといえるものでしょうか。私には、とてもそうは思えません。
2 「?」という符丁が示すもの
高裁審判決は、本件手帳の記載内容が全て正確であるという前提に立った上で、次に、「?」という符丁の意味するところをいろいろと解釈し、少なくとも面識のある者については、「?」の符丁はつけていないと断定します。
その上で、2月28日欄にある「?外人0・2万円」の記載と照応し、もしこの記載が被告人との売春記録であるならば、およそ2ヶ月前である12月12日に売春をしているから、被害者は、被告人がこの時の売春客であったことは認識できたはずであって、「?」の符丁をつけるはずがないなどといいます。しかも、被告人が供述している1月下旬の買春が本当なら(高裁判決はこの供述は嘘だといっています。)、なおさら面識があったはずであり、「?」の符丁をつけるはずがないというのです。
皆さんは、どう思われますか。「?」の符丁の意味内容も、高裁判決がいうように断定できるほどの材料があるとは思えませんが、それ以上に、なじみ客でもなく、名前も連絡先も知らず、街頭で声をかけて売春に誘う客に関し、2回目に会っただけでその個人を必ず識別できるとは思えません。
さらに、高裁判決のいうように1月下旬の売春がなかったとしたら、12月に立て続けに3人の相手をした外国人とこの時の客とが同一であると認識できていなくても、全くおかしくありません。街頭で声をかけたその場限りの客を、2回目には、識別、特定できるはずという高裁判決の説示内容は、常識を逸脱しているとしか思えません。
3 1月20日の売春行為の存否と「ネパール人0・2万円」の記述の照応
さらに、高裁判決が変なのは、1月下旬頃に被害者と買春をしたという被告人の供述を信用できないといい、その理由に関し、売春代金5千円を支払ったという被告人の供述と「ネパール人0・2万円」という記載が一致しないからだといいます。
しかしながら、本件手帳が被告人に開示されたのは、被告人が1月下旬に買春をしたという上記供述を行ってからです。被告人は、本件手帳の記載内容を知らないで供述しています。その被告人が、ありもしない1月下旬の被害者との売春行為をわざわざ虚構して供述する理由などないはずです。
最後の買春が本件犯行日か、2月28日から3月2日頃までの間かは別にして、被告人は被害者と3回の買春を行っていることに間違いはないと思われます。そうだとすると、そして、高裁判決がいうように本件手帳の記載内容が正確であるとすれば、2回目の買春は、この「ネパール人0・2万円」に該当するはずです。ただ、そうすると、ここに記載された売春代金0・2万円という記載内容が被告人の供述とあわないことになります。そのため、高裁裁判官にとっては、2回目の買春はありもしないことを被告人が言っているだけだということになるのです。繰り返しますが、被告人において、わざわざありもしない2回目の買春を作り立てて供述する理由はありません。結局、2回目の買春は、「ネパール人0・2万円」がこれに照応し、ここに0・2万円とあるので、本件手帳の記載内容はそれほど正確でないか、2回目と3回目はそれぞれ5千円払ったという被告人の供述が、きちんとした記憶に裏打ちされた供述ではないということになります。
なお、1回目の買春に一致する「?外人(401)1・1万円」という記載にある1・1万円について、この額が正確であるかどうかの裏付けもないのです。
4 誤った判断の柱ができたこと
以上のように、不合理なことだらけであるにもかかわらず、高裁判決は、被告人による買春は、2月28日から3月2日頃までの間にはない、それ以降に被告人との売春記録はない、本件犯行現場には被告人の精液が入った本件コンドームがあった、これはもう被告人が本件犯人であることは疑う余地なし、という思考の流れが完成しています。
そのため、その他の争点に関しては、よほど上記認定と矛盾するような事実が出てこない限り、結論に変更なしという論調で、判断が行われていきます。以下に、見ます。
5 店長Aの証言について
高裁判決は、「督促の留守電を入れた3月1日の2,3日後に、被告人から電話があり、3月5日の水曜日に本件鍵と家賃を持ってくると返答があった。ところが、3月5日には持って来ず、その4,5日後に持ってきた。受け取った家賃10万円は、大家の会計担当者Dにすぐ届けた。警察の調べで、届けた家賃を会計担当者Dが入金したのが3月11日で、被告人の休日が10日だったと聞き、10日に持ってきたと思った。」という店長Aの供述は、被告人に本件鍵と滞納家賃の督促をしたいきさつから始まる事態の推移を自然かつ具体的に述べるものであり、信用性が高いと説示し、本件鍵を受け取った具体的状況については、「全く覚えていない。」と証言し、「届けた人物についても記憶にない」と証言している点については、本件鍵の受取の具体的場面の記憶がはっきりしないからといって、それが直ちに受取時期に関する供述の信用性を損なうと見るべきではないなどといいます。
しかしながら、本件鍵の受取の具体的状況について全く覚えていないのに、なぜ、4,5日後に持ってきたといえるのでしょうか。私には、ちょっと理解できません。取調官の誘導というかどうかは別にして、入金状況などの資料を見ると、そのような流れだったと思われるという程度のことを言っているとしか私には思えません。
こうした高裁判決の判断は、私が以前から批判している調書主義の弊害の典型です。すなわち、刑事裁判官の悪しき習癖として、捜査機関(特に、検察官)が作成した供述調書(被告人の弁解や自白内容、目撃者や事件関係者などの供述内容を、捜査官が聴き取って調書という書面を作成し、供述者が供述内容を確認して、署名・押印する。)の内容は、真実だと思い込みます。こうした調書は、いわゆる取調室という密室の中で、対面した捜査官に事情を聴かれ、捜査官が内容を聴き取って書面にします。これに対して、自分が指揮する公判廷で、自由な雰囲気のなかで証言される内容は、うそだと思う傾向があります。
本件では、高裁判決は、店長Aが供述したとされる「3月1日に電話、5日に届けるという回答、当日持ってこないが、4〜5日後にもってくる、よって10日以降にもってきた。」という調書の内容にべったりです。
これに対して、店長Aが行った証言内容は、公判廷での弁護人の反対尋問において出てきたものですが、要は、「捜査官の作成した調書においては、全く間違いのない記憶に基づくかのような供述内容になっているが、本当ですか?」、「記憶は曖昧ではありませんか?」、「曖昧でないというならば、具体的な受け取りの状況について具体的に証言してください?」というような反対尋問に対するものなのです。そこでは、具体的状況は全く記憶にないというのが証言内容です。
それなのに、高裁判決は、受取の具体的状況は記憶になくても、届出日の記憶に関しては信用できるなどと言っているのです。すごい違和感を感じませんか。
6 会計担当者Dの証言について
高裁判決は、「自分は、同じ大家が経営するカプセルホテルの経理事務も担当しており、家賃を受け取ると、カプセルホテルの売上金を入金するときに一緒に持っていって入金していた。売上金との混同を避けるために、家賃は受け取ったらなるべく早く入金するようにしていた。銀行の通帳を見ると、家賃10万円は3月11日に入金になっている。10日に6日から9日までの4日分の売上金が入金になり、11日に10日の売上金が入金になっているので、家賃は、10日の夕方から翌日入金するまでに、店長Aが持ってきたものと思う。」という会計担当者Dの供述は、銀行の資料に基づく明確で具体的なものであり、これによれば、3月10日ないし翌11日に店長Aが会計担当者Dに家賃10万円を届けたことは間違いないものと認められるなどと説示しています。
しかしながら、この会計担当者Dは、他方で、「売上金の入金については、会社で行けない事情がある場合や仕事の事情で午後3時をすぎた場合は、次の日に回す場合もある。」、「複数のいろいろな入金があるので、受け取った当日または翌日のうちに入金したのかそうではないのか、必ずしも覚えていない」、「家賃を受け取ってから何日も自分の手元に置いていたこともあったと思う。」とも証言しています。それにもかかわらず、高裁判決は、3月6日に家賃を受取りながら、10日まで入金するのを失念した可能性については、会計担当者Dは、売上金と家賃の銀行入金を日常の業務として行っている者なのであって、そのような可能性はないと説示するのです。ほんとに何の根拠もない判断だと思いませんか。
結局、このように実にあいまいと思われる店長Aと会計担当者Dの証言をほとんど根拠もなく、信用性が高く、信用できるなどと説示して、第1審の慎重な事実認定を排除し、結果、本件鍵の返還時期は、本件犯行後であると言い切っているのです。
7 被告人の収支状況について
被告人の収支状況についても、高裁判決は、第1審と同様、詳細な検討を行っています。 しかし、その根拠となるのは、同居人や同僚などの記憶に基づき、○○円払った、××円返してもらった、10万円以上はあったように感じたというような供述を積み上げての計算で、誰一人として出納簿をつけていたわけでもありません。スタートとなるべき3月4日の手持ち現金の額さえよくわからないのです。
これをもって、家賃の支払いはできなかったと断定することに、皆様は躊躇を覚えませんか。
8 被害者が第三者と101号室に入り込んだ可能性について
この点についても、高裁判決は、101号室の管理が余り良くなかったとはいえ、通常のアパートであり、隣の102号室には居住者がいたのであるから、K荘に全く関係ない被害者が、遊客を連れて勝手に入り込む事態が、現実に起こるとは想定できないといいますが、皆様はどう考えますか。
被害者は、金のない客とは、他人の敷地である駐車場に入り込んで屋外性交を行ったりもしてますから、もし被害者が101号室が空室で、無施錠であることを知っていたとしたら、遊客を連れて勝手に入り込んで使うという事態は、容易に想定できませんか。
9 本件コンドームの遺留
私などは、本件コンドームが犯行当夜使用されたものであるならば、犯人がそれを現場に遺留したのは不可解であると感じますが、高裁判決は、犯人において、本件コンドーム及びその中の精液が後日重要な証拠となることには思い及ばなかったとしても、これが特に不自然、不可解な事態といえないといいます。
さらに皆様は、包装パッケージを持ち出しながら本件コンドームを放置したのも不可解と感じるでしょう。ところが、高裁判決は、包装パッケージは小さなもので、犯人がポケットなどに入れて持ち出した可能性も考えられ、これが現場で発見されていないからからといって、直ちに疑問が生じるということにはならないといいます。本件コンドームを残し、パッケージは小さいのでポケットに入れて持ち去る、どう考えても不自然ですね。
10 被害者の定期券入れの発見
定期券入れが被告人には土地勘のない巣鴨の民家で発見されたことについても、被告人を有罪とするにはいやな感じがする事実です。しかし、高裁判決は、それだから被告人と本件犯行の結びつきが疑わしいことにならないことは、本件証拠に照らして見やすい道理であるといいます。
私にとっては、とても見やすい道理とは思えませんが、高裁判決のこうした一貫した言い回しには、謙虚さがなく、一種の傲慢さを感じるのは私だけでしょうか。
11 まとめ
結局、高裁判決は、本件手帳の記載内容が正確であり、これから判断すると、2月28日から3月2日頃までの間に被害者と性交したという被告人の弁明は、全く信用できないという判断を柱にして、その他の証拠も評価しているので、その中で被告人に有利な事実がでてきても取るに足りないことと考えていることがよくわかります。
そのため、そのほかの証拠を、一つずつ慎重に検討、評価しようという姿勢がみえず、独りよがりで、かつ、見方によっては傲慢な説明に終始しています。
そして、そもそも、その判断の拠り所であり、判断の大前提となっている本件手帳の記載内容の検討内容及び評価方法もとても我々を納得させるものではありません。
第八 最高裁判決
最高裁は、高裁判決の判断は正しいとして被告人の上告を棄却しましたので、高裁判決が確定しました。
最高裁も、私が、指摘したようなことについて疑問に思わなかったのでしょうか。
第一 新たな証拠
控訴審では、本件手帳及び押収された手帳の記載の正確性を検討するために、5人のなじみ客を証人尋問した。その結果は、次の通りである。
一 それぞれが、最初の買春の状況及びその後の買春の状況についてかなり詳しい証言をしており、買春の年月日はもとより、被害者との連絡の仕方、売春代金及びその支払方法に至るまで、客側の証言内容が、手帳の記載と非常によく合致している。
二 上記客のうち4名について、同人らが被害者との買春状況を自分の手帳やメモに記載していたところ、これらの手帳やメモが証拠として提出された。
そのうち客1は、自分の手帳に記載された8回分について、被害者の手帳の記載と完全に一致した。
客2については、自分の手帳に記載された48回分について、被害者の手帳の記載と完全に一致した。
客3については、33回分について完全に一致した。
客4については、提出されたメモと被害者の手帳の記載が一致した。
第二 控訴審における高裁判決の判断
一 被害者の手帳の記載内容の正確性について
被害者の手帳の記載内容の正確性を検討すると、売春相手となった客側の供述、証言、手帳、メモ等と合致しているのであり、書き誤りがないばかりでなく、書き漏らしも見いだしがたい点において、非常に確度が高いと認められる。これは、控訴審で新たに証人尋問したなじみ客の証言や手帳との照合結果からも、さらに明確になった。
第1審は、その正確性についてこれを担保する裏付けがないとして懐疑的であるが、その評価は正鵠を射たものとは言い難い。
二 手帳の記載との関係からする最後の買春の日時に関する被告人の弁解の検討
そこで、手帳の記載内容を見ながら、その記載の趣旨について検討する。
まず、「?外国人0.2万」の記載の趣旨が問題となる。
「?」の符丁の記載の仕方に関し、被害者は、初めての客相手に売春する場合、相手の名前を聞き出すなどして、今後とも引きつづき客になりそうだと判断した場合には、初回でも「?」をつけないが、相手方が名を明かさず、連絡のヒントさえ与えてくれなかったり、相手方の応対態度から今後は客にはできそうではない判断した場合は、「?」の符丁をつけておき、次に売春をする機会がまたあって、名前や連絡方法などがわかり、今後も客にできそうな場合は、「?」の符丁を外すという傾向があったことが窺われる。
そうすると、12月12日欄の「?外人(401)1・1万円」の記載は、被告人の供述する初回の買春に照応することは疑いないのであるが、被害者が「?」の符丁をつけたのは男3名と401号室で売春を行ったものの、3名が同室の居住者かどうか判然とせず、身元の確認ができなかったからであると推認できる。そして、その4日後の16日の欄「外人(401)0・3万円」とあるのは、その客が3人の中の1人であり、401号室の居住者であることがわかったので、「?」の符丁をはずしたと説明できる。
以上を前提に、2月28日欄の「?外人0・2万円」の記載について検討すると、被害者は被告人と面識があったはずであり、被告人を401号室で売春した外人と容易に認識できたはずであるから、「?外人」と記載するとは考えがたい。1月23日の「ネパール0・2万」の記載は、被告人が供述する2回目の買春とは代金の額が違いすぎて照応するとは言い難いが、仮にそうだとすると、なおさら、2月28日欄の「?外人」の記載は、被告人ではなく、別人であるというべきである。
次に、「0・2万円」の記載につき検討する。
被告人は、当初、最後の買春の際支払った金額は、4,500円くらいだったと供述した。この供述は、定期券の購入代金及びハッシムからの借金の額の記憶と結びつけてなされ、明確であったが、その後は、「最大で4,500円というのは確かだと思うが、それより少ない可能性はいくらでもある。」と供述を変え、「多ければ4,500円、3,500円かもしれないし、2,500円かもしれない。」と修正するなどして、不自然である。 しかも、その供述する額は、「0・2万円」とは異なっており、仮に被害者が2,500円を受け取ったなら「0・25万円」と記載するはずである。
以上からすれば、2月25日から3月2日ころまでの間に、101号室で被害者と性交し、その際に使用したコンドームを便器に自分が投棄したという被告人の供述は信用できない。
二 本件鍵の保管状況
1 本件鍵の返還時期に関する店長Aの供述ないし証言の検討
店長Aが本件鍵と家賃を受け取った時期について、「督促の留守電を入れた3月1日の2,3日後に、被告人から電話があり、3月5日の水曜日に本件鍵と家賃を持ってくると返答があった。ところが、3月5日には持って来ず、その4,5日後に持ってきた。受け取った家賃10万円は、大家の会計担当者Dにすぐ届けた。警察の調べで、届けた家賃を会計担当者Dが入金したのが3月11日で、被告人の休日が10日だったと聞き、10日に持ってきたと思った。」と供述する。
この供述は、被告人に本件鍵と滞納家賃の督促をしたいきさつから始まる事態の推移を自然かつ具体的に述べるものであり、信用性が高い。
第1審判決は、受取日を3月10日と証言したことにつき、取調官の誘導に乗った面があることを否定していないとして、10日を受取日とする証言の信用性には疑問があると説示するが、この証言の内容は、もともと「(返還約束の日である)3月5日から4,5日経った日」という自分の記憶があるところ、被告人の休日と銀行入金日を取調官に教えられて、受け取った日が10日であると合点したというのであるから、誘導と目すべきものではなく、原判決は当を得ない。
もっとも、店長Aは、本件鍵を受け取った具体的状況については、「全く覚えていない。」と証言し、「届けた人物についても記憶にない」と証言するに至っているが、本件鍵の受取の具体的場面の記憶がはっきりしないからといって、それが直ちに受取時期に関する供述の信用性を損なうと見るべきではない。
2 本件鍵の返還時期に関する会計担当者Dの供述ないし証言の検討
会計担当者Dは、「自分は、同じ大家が経営するカプセルホテルの経理事務も担当しており、家賃を受け取ると、カプセルホテルの売上金を入金するときに一緒に持っていって入金していた。売上金との混同を避けるために、家賃は受け取ったらなるべく早く入金するようにしていた。銀行の通帳を見ると、家賃10万円は3月11日に入金になっている。10日に6日から9日までの4日分の売上金が入金になり、11日に10日の売上金が入金になっているので、家賃は、10日の夕方から翌日入金するまでに、店長Aが持ってきたものと思う。」と供述する。
この供述は、銀行の資料に基づく明確で具体的なものであり、これによれば、3月10日ないし翌11日に店長Aが会計担当者Dに家賃10万円を届けたことは間違いないものと認められる。
この点につき、第1審判決は、3月6日に家賃を受け取りながら、10日まで入金するのを失念した可能性を否定できないというが、会計担当者Dは、売上金と家賃の銀行入金を日常の業務として行っている者なのであって、そのような見方は失当である。
3 本件鍵の返還時期に関する同居人2の証言の検討
同居人2は、「3月5日夜12時前、被告人が帰って来た。部屋には、モハン・カドカとマダンと私がいた。私は、被告人に請求されて1万円を渡したところ、これに9万円を足した10万円と本件鍵を被告人がくれて、『自分が仕事に行く前には間に合わないし、帰ってきても夜になるので、翌日昼間の時間に店長Aに持っていって下さい。』と頼まれた。翌6日午後12時30分頃家を出て、店長Aの勤務するレストランNで、当時このレストランに勤務していたマラヤン・マッラに会い、店長Aを外に呼んでもらって、10万円と本件鍵を渡した。」と証言する。
しかしながら、この証言は、次の事情に照らすと、信用できない。
第1に、同人の証言は、「3月6日に自分が店長Aに鍵を返した。」という供述ないし証言と「自分は返したことはない。」、「口裏合わせである。」という否定供述の間で何度も変転し、周囲の働きかけに影響されて安易に供述ないし証言を変える傾向が見られ、どちらが正しいのかにわかに決しがたい。
第2に、「3月6日に返した。」という同人の供述ないし証言は、店長Aの供述と相反している。また、店長Aは、「被告人以外のものから鍵の返還を受けた記憶もない。」と証言している。また、当時、従業員であったマッラは、「同居人2はよく知っているが、昼の時間帯に来て、店長Aを呼んでくれと言われた記憶はない。」という。なお、マッラは、「当時店が忙しかったので、同居人2が来たとしても覚えていない可能性もある。」とも言うが、いずれにしても同居人2の来訪の記憶がないことに変わりはない。さらに、同居人であるマダンは、「3月5日の夜、被告人が帰宅した時、被告人に起こされて家賃と電話代の請求をされた。被告人と同居人2との間に現金のやりとりはなかった。」というのであるから、六畳一間の狭隘な401号室で、他の者に気づかれずに現金と鍵のやりとりが行われたというのも不自然である。
以上から、同居人2の供述は、信用できない。
4 被告人の収支状況
被告人の収支が、3月冒頭の時点で相当逼迫していたことに争いはない。そこで、被告人が給料を受け取った直後の6日の時点で、家賃10万円を支払うことができたかを検討する。
まず、ナレンドラは、「2月6日から8日頃までの間、被告人から、本国に30万円送金したいので10万円借金したいと申し込まれ、倍の20万円にして返してくれるかと半ば冗談で言うと、被告人は次の給料日に返すというので、手持ちの10万円を貸した。すると、被告人は、3月6日、20万円全額ではないが、15万円を返し、その後13日か14日に5万円をよこした。」と供述する。被告人も、20万円を支払うという約束をしたことは自認するが、その履行として、「3月5日から7日の間にマダンから、10日にラメシュから、それぞれ家賃3万円を受け取り、自分の給料の残り9万円にこの6万円を足して15万円を支払った。1回で支払ったか、10日前に先に12万円を支払い、ラメシュから借りた3万円を別に払ったかは、はっきりしない。その後、別の知人から5万円を借り、そのうち4万円を支払った。1万円の不足は特に問題にされなかった。」と、ナレンドラとは異なる供述をしている。さらに、ラメシュは、「3月5日から7日の間、被告人の給料日が5日なので、その翌日の6日だと思うが、午前10時頃、被告人がナレンドラに、借りた金を返すよと言って、かなり多くの1万円札を財布から取り出し、手渡すのを見た。10万円以上はあったと感じた。」という。
以上を前提に、第1審判決は、被告人やナレンドラの間には、1万円、2万円の額の貸借は頻繁にあったというのであるから、ナレンドラの供述は、適確な裏付けがなければ、具体性に欠けると言わざるをえないのであり、返済金額については、「10万円以上はあったと思う。」というラメシュの供述の限度でしか適確な裏付けを欠く、という。また、ナレンドラは、返済日を3月6日と供述するが、その日であるという具体的根拠は何ら明らかにされているとはいえず、ラメシュの供述も同様の指摘ができる。そうすると、ナレンドラへの返済額は、被告人も否定していない額である12万円であった可能性も否定できないし、返済日についても、せいぜい犯行日の3月8日以前とまでしか認定できない、と説示する。
しかしながら、まず、ナレンドラへの返済日に関する供述については、被告人の給料日の翌日の6日に、同人が帰宅すると、給料日に返す約束をした金員の返済を被告人から受けたというのであるから、極めて自然な供述であり、借金の返済日が6日であったのは疑いない。次に、返済額については、「被告人は、3月6日、20万円全額ではないが、15万円を返し、その後13日か14日に5万円をよこしたので約束を守ったことになった。」という供述も、簡潔ではあるが、これ以上に話に具体性がなければ信用できないという第1審判決の言い分は解せない。15万円の支払が2回に分けて行われたという事情は、全く窺われない。ラメシュの証言もあわせてみると、返済額が15万円であったことは間違いないものと認められる。
そこで、3月5日から翌6日にかけての被告人の収支状況を確認する。
3月4日の段階の所持金の額は、せいぜい1万円程度であったにとどまると認められる。そして、5日に、給与216,925円が入金になると、その日に、21万円を、翌6日に、6千円を引き出している。また、5日夜に、同居人2から家賃1万円、マダンから電話代3千円を受け取った可能性があるが、翌7日夜に、マダンから家賃3万円を受け取るまで、その余の収入があった形跡はなく、そうすると、3月6日に被告人が所持していた現金の総額は、24万円弱程度であったことになる。
他方、支出は、6日に、ハッシムとグルンにそれぞれ1万円を返済し、さらにナレンドラに15万円を支払うと、支出合計は17万円になり、そうすると、被告人の手元には、7万円弱が残るにすぎないことになり、10万円の家賃を支払うには3万円余の不足が生じる。仮に、ナレンドラに返済した額が12万円であったとしても、支払後は手元に全く残らないことになり、事実上無理であったといわなければならない。
そうすると、6日に、同居人2に家賃10万円を託して店長Aに届けたという被告人の言い分は、信用できない。
5 まとめ
以上から、被告人が本件鍵を家賃とともに返還したのは、6日ではなく、10日ないし11日であり、本件犯行日である8日には、本件鍵は、被告人が所持していたものである。
五 被害者が第三者と101号室に入り込んだ可能性
被告人の「本件鍵を預かっていた2月25日から3月2日頃までの間に、買春のため101号室に入り、被害者と性交した後、また利用するためドアを施錠しないで同室を立ち去り、6日に鍵を返還した。」という弁明のうち、「その頃、被害者と性交した。」という言い分と「鍵を6日に返した。」という言い分は信用できないことはすべに述べた。それとは別に、被告人からすると、買春のためにホテルに行けば金がかかるし、401号室では同僚の帰りが気になるのは道理であり、この言い分は弁解のための弁解とはいいきれない。また101号室の管理状態は相当杜撰で、店長A自身、3月18日には、勝手に入り込んだ女性を目撃しながら、咎めもせずに施錠だけして引き返していることからしても管理のずさんさが明らかである。 そこで、被害者が売春のための遊客を伴って入り込んで、本件被害に遭った可能性を検討する。
第1審判決は、被害者が、本件以前に、被告人を相手に101号室で売春をした際、被告人が同室の鍵をかけなかったことを知っていたため、本件当夜、他の遊客を連れ込んで被害に遭った可能性を示唆するが、被害者の手帳の記載を調べても、被害者が101号室で被告人相手に売春をしたことは認めがたいことは、すでに検討した通りである。そうだとすると、同室が空室であって、施錠されていないことを被害者が知るきっかけがあったとは考えられない。他方、101号室の管理が余り良くなかったとはいえ、通常のアパートであり、隣の102号室には居住者がいたのであるから、K荘に全く関係ない被害者が、遊客を連れて勝手に入り込む事態が、現実に起こるとは想定できない。
ただ、被告人のネパール人仲間が、101号室が空室であって、しかも施錠されていないことを聞知して、同室に連れ込んだ可能性も全く想定できないわけではないので、同居人についての当時の行動を見ると、いずれの者も、本件時間帯に被害者とK荘付近にいた形跡は認められない。
第三 原判決が指摘する「解明できない疑問点」について
一 本件コンドームの遺留状況
第1審判決は、本件コンドームが犯行当夜使用されたものであるならば、犯人がそれを現場に遺留したのは不可解であるという。
しかしながら、犯人において、本件コンドーム及びその中の精液が後日重要な証拠となることには思い及ばなかったとしても、これが特に不自然、不可解な事態といえない。
さらに、第1審判決は、本件コンドームの包装パッケージが発見されていないことを指摘し、犯人が、包装パッケージを持ち出しながら本件コンドームを放置したのは不自然であり、犯人は本件コンドームを使用していないのではないかという疑問が生じるという。しかし、包装パッケージは小さなもので、犯人がポケットなどに入れて持ち出した可能性も考えられ、これが現場で発見されていないからといって、直ちに疑問が生じるということにはならない。原判決の指摘は、相当であるとはいえない。
二 第三者の陰毛の存在
第1審判決は、被告人と被害者以外の者の陰毛が二本落ちていたことからして、第三者が101号室に入って被害者と性交し、本件犯行に及んだ疑いが払拭しきれないという。
しかしながら、101号室には、平成8年10月頃まで、別なネパール人が居住していたのであるから、退去時の清掃が不十分で、その後も掃除がなされなかったことが窺えるから、第1審判決指摘の陰毛の存在も、必ずしも、第三者が101号室に入り込んで本件犯行に及んだ可能性があることにはならないというべきである。
三 被害者の定期券入れの発見
定期券入れがどうして巣鴨の民家で発見されたかについては判然とせず、未解明のままであるが、これが未解明であるからといって、それだから被告人と本件犯行の結びつきが疑わしいことにならないことは、本件証拠に照らして見やすい道理である。第1審判決は、定期券入れが発見された場所が被告人が土地勘を持たない場所であることを被告人に有利な事情として指摘するが、そのような見方は相当とはいえない。
第四 総括と結論
一 以上の検討から、次のようなことが認められる。
1 現場で発見された陰毛について、DNA型鑑定を実施したところ、B型2本の内の1本が被告人のそれと一致し、O型2本の内の1本が被害者のそれと一致するとそれぞれ判定された。
2 現場の便器から発見されたコンドーム内の精液と被告人の血液につき、警視庁科学捜査研究所において、DNA型と血液型のそれぞれにつき型鑑定を行ったところ、両者はすべて一致した。
3 そして、これらのDNA型鑑定及びABO式血液型検査は、いずれも専門的な知識、技術を習得した経験者により、科学的に信頼される方法で行われたと認められる。また、本件精液の発見採取時までの経過時間については、約10日経過したものとしても、鑑定人の実験結果と矛盾はなく、不自然ではない。
4 「2月25日から3月2日ころまでの間に、101号室で被害者を相手に買春し、性交後に自分が同室の便所の便器にコンドームを投棄した」旨の被告人の供述は、買春代金の支払額について不自然な変遷があるなど、その供述自体疑わしいばかりでなく、被害者の本件手帳の売春結果欄の克明で確度の高い記載内容とも照応しないから、信用しかねる。
5 アベック目撃の供述から、同人の見たアベックの女性は被害者であると認められ、その相手の男性の特徴は、それが被告人であっても不審はない。
6 被告人は、前年12月12日の夜、勤務の帰途、円山町付近の路上で被害者と行きあい、自分が借りているYビル401号室に連れ込んで、被害者と合意の上で、当時同居していた同居人1、同居人2と3人で、買春を行ったことがあり、101号室の本件鍵を持っていて、同室が空室であることを知っている被告人が、3月8日午後11時30分ころに、被害者と連れだって101号室に入ることは、時間的、場所的に十分可能であり、不審はない。
7 他方、被告人の言うとおりに、本件犯行が行われる以前から、101号室の出入口の施錠がされないままになっていたとしても、右アパートに係わりのない被害者が、同室が空室であり、しかも施錠されていないと知って、売春客を連れ込み、あるいは、被告人以外の男性が被害者を右の部屋に連れ込むことは、およそ考え難い事態である。
二 以上の事情を総合すると、被告人は、3月8日、勤務先からの帰途、Yビルに至る路上で被害者と遭い、午後11時30分ころ、買春目的で被害者を伴ってK荘101号室へ入り、同室において、被害者相手にコンドームを用いて性交して射精した後、身づくろいを終えた被害者の本件ショルダーバッグの取っ手を握って奪おうとして抵抗にあっために、被害者の顔面等を殴打し、頚部を扼して殺害し、右ショルダーバッグの中の財布から少なくとも4万円を奪ったものであり、同室便所の便器の溜まり水の中にあった本件コンドームは、右性交時に使用したコンドームで、殺害の前に被告人もしくは被害者が、あるいは殺害後に被告人が、そこへ投棄したものと認めて誤りない。そして、関係証拠を検討しても、被告人の頑なな否認にもかかわらず、右認定に合理的な疑いを容れる余地はない。
三 第1審判決が被告人を無罪としたのは、証拠の評価を誤り、事実を誤認したものといわなければならない。
第五 量刑の理由
本件は、被告人が、買春の相手となった女性を殺害してその所持金を奪取した強盗殺人の事案である。強盗目的による凶行であって、実際にも被害者が所持していた現金約4万円を奪取していることを併せると、犯情は非常に悪質である。被害者は、日頃売春を繰り返していたとはいえ、相当な経歴のある会社員であったところ、突如売春の客に襲われ、39歳で短い一生を終えるに至ったもので、その肉体的苦痛が多大であったことはもとより、無念さのほども察するに余りある。遺族の心痛の深さも併せ考えると、犯行の結果は重大である。一方、被告人は、本件を頑なに否認し、第1審及び控訴審を通じ不合理、不自然な弁解を続けている。以上を総合すれば、被告人の刑責は相当に重いといわなければならない。 そうすると、被告人には、本邦における前科はないこと、入国後飲食店従業員として真面目に稼働していたこと、本国に妻子がいることなどの被告人のために斟酌すべき情状を考慮しても、被告人に対しては無期懲役刑を科するのが相当である。
第六 判決
被告人を無期懲役に処する。
第七 高裁審判決の問題点(筆者の意見)
この高裁判決を読んで、皆様は、どのような印象を持たれましたでしょうか。
さすがに控訴審の裁判官の事実認定は鋭いな、全てをお見通しだなと思われましたでしょうか。
それとも、断定的にものを言うだけで説得力がない、単に我田引水なだけではないか、こんな証拠で有罪にしてよいのかと思われましたでしょうか。
私は、当時、この判決を読んで、ものすごく違和感を感じ、高裁裁判官の傲慢さのようなものを感じました。ただ、後述するように、最高裁も高裁判決の判断を是認しておりますの、職業裁判官だけでなく、弁護士や行政官、学者などで構成される最高裁判事の方々もこれを是としたわけです。 何が変なのか、以下に指摘しましょう。
1 本件手帳の記載内容の正確性について
高裁判決の判断が最も大きな拠り所としたのは、本件手帳の記載内容の正確性です。
これが正確であるが故に、2月28日から3月2日ころの間に被害者と性交したという被告人の弁明は嘘であるというのが、まさに高裁判決の判断の柱であり、他の争点については、それにあわせる形で、有罪認定の方向へ各事実を認定しているのが見て取れます。
確かに、本件手帳の記載内容はそれなりに正確なものと思われます。高裁裁判官は、その正確性をさらに確かめたいと思ったのでしょうが、控訴審で、5名のなじみ客を証人尋問し、その証言するところと本件手帳の記載内容を照応し、さらには、これらなじみ客が保管していた手帳やメモ等とも照らし合わせ、その正確性を確信します。
皆様は、このような照応の結果から、本件手帳の記載内容が正確であると確信できますか。控訴審で証人尋問した証人は、皆被害者のなじみ客です。しかも、彼らの手帳やメモに被害者と売春行為を行ったことがわかるような記載があるというのですから、突然街頭で声をかけられた客ではなく、懇意にしている客が予約などして買春しているということでしょう。そのようななじみ客に関する売春記録が正確だからといって、円山町界隈を徘徊しながら声をかけて売春した客に対する売春記録まで正確であるなどといえるものでしょうか。私には、とてもそうは思えません。
2 「?」という符丁が示すもの
高裁審判決は、本件手帳の記載内容が全て正確であるという前提に立った上で、次に、「?」という符丁の意味するところをいろいろと解釈し、少なくとも面識のある者については、「?」の符丁はつけていないと断定します。
その上で、2月28日欄にある「?外人0・2万円」の記載と照応し、もしこの記載が被告人との売春記録であるならば、およそ2ヶ月前である12月12日に売春をしているから、被害者は、被告人がこの時の売春客であったことは認識できたはずであって、「?」の符丁をつけるはずがないなどといいます。しかも、被告人が供述している1月下旬の買春が本当なら(高裁判決はこの供述は嘘だといっています。)、なおさら面識があったはずであり、「?」の符丁をつけるはずがないというのです。
皆さんは、どう思われますか。「?」の符丁の意味内容も、高裁判決がいうように断定できるほどの材料があるとは思えませんが、それ以上に、なじみ客でもなく、名前も連絡先も知らず、街頭で声をかけて売春に誘う客に関し、2回目に会っただけでその個人を必ず識別できるとは思えません。
さらに、高裁判決のいうように1月下旬の売春がなかったとしたら、12月に立て続けに3人の相手をした外国人とこの時の客とが同一であると認識できていなくても、全くおかしくありません。街頭で声をかけたその場限りの客を、2回目には、識別、特定できるはずという高裁判決の説示内容は、常識を逸脱しているとしか思えません。
3 1月20日の売春行為の存否と「ネパール人0・2万円」の記述の照応
さらに、高裁判決が変なのは、1月下旬頃に被害者と買春をしたという被告人の供述を信用できないといい、その理由に関し、売春代金5千円を支払ったという被告人の供述と「ネパール人0・2万円」という記載が一致しないからだといいます。
しかしながら、本件手帳が被告人に開示されたのは、被告人が1月下旬に買春をしたという上記供述を行ってからです。被告人は、本件手帳の記載内容を知らないで供述しています。その被告人が、ありもしない1月下旬の被害者との売春行為をわざわざ虚構して供述する理由などないはずです。
最後の買春が本件犯行日か、2月28日から3月2日頃までの間かは別にして、被告人は被害者と3回の買春を行っていることに間違いはないと思われます。そうだとすると、そして、高裁判決がいうように本件手帳の記載内容が正確であるとすれば、2回目の買春は、この「ネパール人0・2万円」に該当するはずです。ただ、そうすると、ここに記載された売春代金0・2万円という記載内容が被告人の供述とあわないことになります。そのため、高裁裁判官にとっては、2回目の買春はありもしないことを被告人が言っているだけだということになるのです。繰り返しますが、被告人において、わざわざありもしない2回目の買春を作り立てて供述する理由はありません。結局、2回目の買春は、「ネパール人0・2万円」がこれに照応し、ここに0・2万円とあるので、本件手帳の記載内容はそれほど正確でないか、2回目と3回目はそれぞれ5千円払ったという被告人の供述が、きちんとした記憶に裏打ちされた供述ではないということになります。
なお、1回目の買春に一致する「?外人(401)1・1万円」という記載にある1・1万円について、この額が正確であるかどうかの裏付けもないのです。
4 誤った判断の柱ができたこと
以上のように、不合理なことだらけであるにもかかわらず、高裁判決は、被告人による買春は、2月28日から3月2日頃までの間にはない、それ以降に被告人との売春記録はない、本件犯行現場には被告人の精液が入った本件コンドームがあった、これはもう被告人が本件犯人であることは疑う余地なし、という思考の流れが完成しています。
そのため、その他の争点に関しては、よほど上記認定と矛盾するような事実が出てこない限り、結論に変更なしという論調で、判断が行われていきます。以下に、見ます。
5 店長Aの証言について
高裁判決は、「督促の留守電を入れた3月1日の2,3日後に、被告人から電話があり、3月5日の水曜日に本件鍵と家賃を持ってくると返答があった。ところが、3月5日には持って来ず、その4,5日後に持ってきた。受け取った家賃10万円は、大家の会計担当者Dにすぐ届けた。警察の調べで、届けた家賃を会計担当者Dが入金したのが3月11日で、被告人の休日が10日だったと聞き、10日に持ってきたと思った。」という店長Aの供述は、被告人に本件鍵と滞納家賃の督促をしたいきさつから始まる事態の推移を自然かつ具体的に述べるものであり、信用性が高いと説示し、本件鍵を受け取った具体的状況については、「全く覚えていない。」と証言し、「届けた人物についても記憶にない」と証言している点については、本件鍵の受取の具体的場面の記憶がはっきりしないからといって、それが直ちに受取時期に関する供述の信用性を損なうと見るべきではないなどといいます。
しかしながら、本件鍵の受取の具体的状況について全く覚えていないのに、なぜ、4,5日後に持ってきたといえるのでしょうか。私には、ちょっと理解できません。取調官の誘導というかどうかは別にして、入金状況などの資料を見ると、そのような流れだったと思われるという程度のことを言っているとしか私には思えません。
こうした高裁判決の判断は、私が以前から批判している調書主義の弊害の典型です。すなわち、刑事裁判官の悪しき習癖として、捜査機関(特に、検察官)が作成した供述調書(被告人の弁解や自白内容、目撃者や事件関係者などの供述内容を、捜査官が聴き取って調書という書面を作成し、供述者が供述内容を確認して、署名・押印する。)の内容は、真実だと思い込みます。こうした調書は、いわゆる取調室という密室の中で、対面した捜査官に事情を聴かれ、捜査官が内容を聴き取って書面にします。これに対して、自分が指揮する公判廷で、自由な雰囲気のなかで証言される内容は、うそだと思う傾向があります。
本件では、高裁判決は、店長Aが供述したとされる「3月1日に電話、5日に届けるという回答、当日持ってこないが、4〜5日後にもってくる、よって10日以降にもってきた。」という調書の内容にべったりです。
これに対して、店長Aが行った証言内容は、公判廷での弁護人の反対尋問において出てきたものですが、要は、「捜査官の作成した調書においては、全く間違いのない記憶に基づくかのような供述内容になっているが、本当ですか?」、「記憶は曖昧ではありませんか?」、「曖昧でないというならば、具体的な受け取りの状況について具体的に証言してください?」というような反対尋問に対するものなのです。そこでは、具体的状況は全く記憶にないというのが証言内容です。
それなのに、高裁判決は、受取の具体的状況は記憶になくても、届出日の記憶に関しては信用できるなどと言っているのです。すごい違和感を感じませんか。
6 会計担当者Dの証言について
高裁判決は、「自分は、同じ大家が経営するカプセルホテルの経理事務も担当しており、家賃を受け取ると、カプセルホテルの売上金を入金するときに一緒に持っていって入金していた。売上金との混同を避けるために、家賃は受け取ったらなるべく早く入金するようにしていた。銀行の通帳を見ると、家賃10万円は3月11日に入金になっている。10日に6日から9日までの4日分の売上金が入金になり、11日に10日の売上金が入金になっているので、家賃は、10日の夕方から翌日入金するまでに、店長Aが持ってきたものと思う。」という会計担当者Dの供述は、銀行の資料に基づく明確で具体的なものであり、これによれば、3月10日ないし翌11日に店長Aが会計担当者Dに家賃10万円を届けたことは間違いないものと認められるなどと説示しています。
しかしながら、この会計担当者Dは、他方で、「売上金の入金については、会社で行けない事情がある場合や仕事の事情で午後3時をすぎた場合は、次の日に回す場合もある。」、「複数のいろいろな入金があるので、受け取った当日または翌日のうちに入金したのかそうではないのか、必ずしも覚えていない」、「家賃を受け取ってから何日も自分の手元に置いていたこともあったと思う。」とも証言しています。それにもかかわらず、高裁判決は、3月6日に家賃を受取りながら、10日まで入金するのを失念した可能性については、会計担当者Dは、売上金と家賃の銀行入金を日常の業務として行っている者なのであって、そのような可能性はないと説示するのです。ほんとに何の根拠もない判断だと思いませんか。
結局、このように実にあいまいと思われる店長Aと会計担当者Dの証言をほとんど根拠もなく、信用性が高く、信用できるなどと説示して、第1審の慎重な事実認定を排除し、結果、本件鍵の返還時期は、本件犯行後であると言い切っているのです。
7 被告人の収支状況について
被告人の収支状況についても、高裁判決は、第1審と同様、詳細な検討を行っています。 しかし、その根拠となるのは、同居人や同僚などの記憶に基づき、○○円払った、××円返してもらった、10万円以上はあったように感じたというような供述を積み上げての計算で、誰一人として出納簿をつけていたわけでもありません。スタートとなるべき3月4日の手持ち現金の額さえよくわからないのです。
これをもって、家賃の支払いはできなかったと断定することに、皆様は躊躇を覚えませんか。
8 被害者が第三者と101号室に入り込んだ可能性について
この点についても、高裁判決は、101号室の管理が余り良くなかったとはいえ、通常のアパートであり、隣の102号室には居住者がいたのであるから、K荘に全く関係ない被害者が、遊客を連れて勝手に入り込む事態が、現実に起こるとは想定できないといいますが、皆様はどう考えますか。
被害者は、金のない客とは、他人の敷地である駐車場に入り込んで屋外性交を行ったりもしてますから、もし被害者が101号室が空室で、無施錠であることを知っていたとしたら、遊客を連れて勝手に入り込んで使うという事態は、容易に想定できませんか。
9 本件コンドームの遺留
私などは、本件コンドームが犯行当夜使用されたものであるならば、犯人がそれを現場に遺留したのは不可解であると感じますが、高裁判決は、犯人において、本件コンドーム及びその中の精液が後日重要な証拠となることには思い及ばなかったとしても、これが特に不自然、不可解な事態といえないといいます。
さらに皆様は、包装パッケージを持ち出しながら本件コンドームを放置したのも不可解と感じるでしょう。ところが、高裁判決は、包装パッケージは小さなもので、犯人がポケットなどに入れて持ち出した可能性も考えられ、これが現場で発見されていないからからといって、直ちに疑問が生じるということにはならないといいます。本件コンドームを残し、パッケージは小さいのでポケットに入れて持ち去る、どう考えても不自然ですね。
10 被害者の定期券入れの発見
定期券入れが被告人には土地勘のない巣鴨の民家で発見されたことについても、被告人を有罪とするにはいやな感じがする事実です。しかし、高裁判決は、それだから被告人と本件犯行の結びつきが疑わしいことにならないことは、本件証拠に照らして見やすい道理であるといいます。
私にとっては、とても見やすい道理とは思えませんが、高裁判決のこうした一貫した言い回しには、謙虚さがなく、一種の傲慢さを感じるのは私だけでしょうか。
11 まとめ
結局、高裁判決は、本件手帳の記載内容が正確であり、これから判断すると、2月28日から3月2日頃までの間に被害者と性交したという被告人の弁明は、全く信用できないという判断を柱にして、その他の証拠も評価しているので、その中で被告人に有利な事実がでてきても取るに足りないことと考えていることがよくわかります。
そのため、そのほかの証拠を、一つずつ慎重に検討、評価しようという姿勢がみえず、独りよがりで、かつ、見方によっては傲慢な説明に終始しています。
そして、そもそも、その判断の拠り所であり、判断の大前提となっている本件手帳の記載内容の検討内容及び評価方法もとても我々を納得させるものではありません。
第八 最高裁判決
最高裁は、高裁判決の判断は正しいとして被告人の上告を棄却しましたので、高裁判決が確定しました。
最高裁も、私が、指摘したようなことについて疑問に思わなかったのでしょうか。