罪を憎んで人を憎まず


1.罪を憎んで人を憎まず。

私が最近、いつも心に置いていることだ。
私は、原子力発電所の運転を止めるための訴訟など、いわゆる原発訴訟を仕事の中心に据えている。
福島第一原発事故が起きたとき、自分も何かしなければと思った。だが、すぐに原発問題に飛び込む勇気がなく、40歳になった時にやっと、原発問題をやろうと決めた。まずは、現場を直接見ようと思って、車で一人、福島県に向かった。
事故から9年も経っていたのに、福島から受けた印象は「町全体が死んでいる」というもので驚いた。また、作業着を着た人をたくさん見かけた。私が思っているより多くの人が一生懸命、福島復興に向けて頑張っていて凄いなあと感じた。一方で、福島をこんな状態にした原発と、原発を運転していた東京電力が許せないと思った。
しかし、私が見かけた福島復興に尽力する人々は、ほとんど東京電力の関係者だと分かった。私は、放射能についての知識が少ないこともあり、怖くてほとんど車から外に出ることすらしなかった。だが、東京電力の人々は、それを厭わず、懸命に復興作業をしている。彼らが福島を復興させようとする思いは本物だ。
じゃあ、誰が悪いのか、誰を憎んだらいいのか、よくわからない。
当然である。誰も憎むべき相手ではないからだ。憎むべきは、間違った意思決定とそれを実行した行為という「罪」であって、「人」ではない。
罪を憎んで人を憎まず、とはこういうことなのかなあと感じた。


2.賛成派と反対派

私は、当事務所の河合弘之弁護士にいきなり連絡し、原発問題に取り組みたいので河合弁護士の下で働かせてほしいとお願いしたら、とても幸いなことにお許しをいただけた。
そうして原発訴訟に取り組む弁護団活動をしていると、人から反原発、脱原発など、要は原発反対派と位置づけられる。また、賛成派の人から、いろいろ言われたり、議論を吹っ掛けられたりすることも良くある。
以前は、賛成派の人には、どのような「理由」で原発に賛成なのかと聞き返したり、議論していた。最近は、どのような「目的」のために原発に賛成するかをまず質問するようにしている。そうすると、賛成派の「目的」は、反対派の「目的」と概ね同じことが多い。平たく言ってしまえば、人々が豊かで幸せになるように、ということだ。どちらも同じ目的を持ちながら、それをどうやって実現しようとするかという手段が違うだけだ。
だから、原発問題を賛成派と反対派の対立構造で小さく捉えると、大きな全体が見えなくなることに注意が要る。
私は弁護士なので、当然ながら原発差止め訴訟では勝訴することに集中するし、そのために必死だ。一方で、私には電力会社に勤める親しい友人もいるので、電力会社側の人々も、人のためと思って一生懸命働き、それぞれに生活があることも良く分かっている。原発問題は、訴訟で勝てばすべて解決するような問題ではないところに、本当の難しさがある。


3.選択と集中

私は弁護士になれたのが遅い方だと思う。大学在学中から3回司法試験に落ち続け、その後生活のために事業会社で10年弱働き、事業会社の最後の4年間は夜間の法科大学院に通った後、さらにもう1回司法試験に落ちて、35歳でやっと合格した。
このような経緯からわかるように、弁護士としての基礎的能力が高いとは決して言えない。また、早い人は20代前半でも合格するから、それと比べると私は10年以上時間をロスしている。つまり、私が弁護士として注げる能力も時間も多くないので「選択と集中」がとても大事だ。
だから、私の能力と時間は、一番大事だと思うことを「選択」し、それに「集中」させている。
弁護士の仕事は楽ではないし緊張するが、どれもとても好きだ。だが、私が一番大事だと考えているのは、人柱の救済である。例えば、みんなに便利な大きな橋を作るときに、河の神様の怒りを鎮め、洪水を起こされないようにと、橋の柱に人を縛り付けて沈めて捧げ物にするのが、人柱である。そんな風習は現代ではなさそうなものだが、私が福島第一原発事故のことを考えると、形を変えた人柱だと感じる。都市の大多数の豊かな生活に不可欠な電力のために、地方に原発を作って、少数の人のかけがえのない人生を犠牲にした。しかも、まだ続いている。
私は100歳まで生きる予定なので、残り60年の時間と力を、人柱をなくすことに使う。
対外的に口に出すと後に退けない背水の陣が敷けるので、この場を借りて、私の決意を表明することにした。
この文章が人の目に触れることは少ないと思うけれど、もし、これを読んで自分も何かしようと思い、行動を起こすきっかけになればとてもうれしい。



以上



2021年(令和3年)2月1日
さくら共同法律事務所
弁護士 北村賢二郎